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【ドキュメント】御嶽山噴火災害
―被災地消防本部―
死者57人と戦後最悪の火山災害となってしまった御嶽山の噴火。延べ約2万8420人を動員した大規模な活動を、地元消防本部は受援という立場でどう支えたのか? すべてが未経験の中、部隊支援に奔走した木曽広域消防本部の活動を紹介する。
Jレスキュー2015年1月号掲載記事
文◎新井千佳子
その時、被災地消防は どう動いたか
木曽広域消防本部の激動の受援活動
当日は登頂できず
9月27日は澄み切った秋の青空が広がる行楽日和だった。午前11時56分、御嶽山の9合目にある避難小屋「覚明堂」からの119番通報で木曽広域消防本部は噴火を覚知した。本部庁舎からは御嶽山が見えず、目視では噴火の状況は確認できなかったが、その後も登山客が山荘に避難している情報が次々と消防に入ったため、同本部は午後13時20分頃に非番招集をかけ、救急車を王滝口登山口に待機させた。その1時間後には支援隊も黒沢口(木曽町側の登山口)と王滝口(王滝村側の登山口)に出向させた。
登山口で待機していると、夕方から夜半にかけて、自力で下山してくる登山客が増えてきた。木曽町側の登山口の黒沢口では木曽病院DMATが、王滝口では信州大学附属病院DMATが現場救護所を設置して第一次トリアージを行い、木曽広域消防本部の全6台の救急車とDMATカー等で病院搬送を行った。最終的に28日までに長野県側に自力で下山したのは136人だった(長野県警察発表)。
下山者からの聞き取りで、山頂付近の負傷者は少なくとも40人おり、そのうち7人は意識不明と予想された。さらに下山者から「強い硫黄臭がした」という声が寄せられ、山頂付近の火山ガス濃度が高い可能性が考えられた。木曽広域消防本部は4台のガス検知器を配備しているが、硫化水素は検出するが二酸化硫黄には対応していなかった。二酸化硫黄を検知する測定器は、同本部だけでなく長野県内の消防本部には1台もなかったのだ。救助部隊の山頂への投入を検討していた県災害対策本部は、隊員が被災する可能性があるとして18時20分、この日の山頂付近での救助・捜索を断念した。入山は翌28日、火山ガス(硫化水素・二酸化硫黄)の検知器を保有する特別高度・高度救助隊、山岳地域での活動に精通した救助隊、航空隊を中心に編成される緊急消防援助隊の到着を待って行われることになったのである。
受援本部の役割は?
御嶽山は過去に数回の噴火の記録はあるが被害がほとんどなく、消防本部は噴火災害の対応・対策マニュアルを作成していなかった。今回の噴火は木曽広域消防本部にとって初めての噴火災害の活動だった。
「当日は情報が錯そうしていて確実な情報がつかめなかった。何もかも初めてのことで、何が危険かわからない中での活動となった。二次被害を防ぐために職員には無理をしないように、安全を周知徹底させた」と話すのは楯啓二木曽消防署長(以下、楯署長)。
また救助・救急活動と並行して、木曽広域消防本部は長野県消防相互応援隊(以下、県内応援隊)、緊急消防援助隊の受入準備を開始した。木曽広域本部が受援本部となるのは初めてのこと。まずは進出拠点の設置・誘導、野営地の確保、燃料提供場所の確保、地図の整備を進めた。また木曽消防署指令室内に、緊急消防援助隊の現地指揮所を設置。長野県が作成する『緊急消防援助隊受援計画』に従いながらの、全職員66名の懸命な活動がはじまったのだ。
野営予定地には自衛隊が!
9月28日は、救助・救急活動と後方支援に60名体制で当たった(10月16日まで60名体制)。
28日、職員の多くを救急対応に割いた。自衛隊のヘリや陸路で多数の傷病者が次々と搬送されてきたので、救急隊がランデブーポイントで引き受け、県立木曽病院まで搬送するピストン輸送を何度も繰り返した。救助活動では、御嶽山をよく知る隊員が登山ルートや山小屋の位置等の情報提供し、救助部隊に同行して登山の先導を務めた。
後方支援で大事なことは、とにかく進出拠点と現地指揮所、野営地をどこにするかを早急に決定して関係機関に伝達することだった。
進出拠点の設置・誘導
県内応援隊の進出拠点を、消防本部から北へ8kmのところに位置する「道の駅 日義」に設定。緊急消防援助隊の進出拠点を消防本部から南へ1㎞のところに位置する「道の駅木曽市場」に設定し、連絡。集結後、救助活動部隊と後方支援部隊をそれぞれ活動進出拠点(登山口)、野営地の2手に分けて誘導した。
指揮支援隊の現地指揮所の設置
9月28日~30日まで木曽消防署指令室に緊急消防援助隊の現地指揮所を設置。指揮支援隊(名古屋市消防局隊)が活動した(10月1日からは自衛隊、警察等関係機関との連携を強化するために王滝村役場に設置された現地合同指揮所に移動)。
野営地の確保
緊急消防援助隊には、隊の希望に応じて体育館等の屋内の野営地を用意(開田高原レクスポセンターなど)。県内応援隊には、受援計画で指定されていた野営地を案内する予定だったが、いざ案内する段になると、そこはすでに自衛隊で埋まっていたため、慌てて代替地(松原スポーツ公園など)を用意。その後、地元の好意により緊急消防援助隊は入浴が可能なスキー場おんたけ2240の宿泊施設「ロッヂ三笠」等に、県内応援隊はおんたけ2240のレストラン内に移ることができた。
28日と29日は、その他にヘリコプターの場外離着陸場の確保(松原スポーツ公園、木曽青峰高校第2グラウンド)、燃料の確保などを行った。
「当初、緊急消防援助隊からは登山口において地図による登山ルートや捜索場所の情報提供のみを依頼されていたが、結局当本部で先導・案内することになった。当日に変更される事項は他にも多々あったが、刻一刻と状況が変わっていく災害現場においては致し方ないこと。職員には臨機応変に対応するように申し伝えていたが、大変だったと思う」(楯署長)。
30日を過ぎたころから、通常の消防業務を行いながら、支援物資の仕分け・配布、その時々で出てくる応援隊からの要望にも対応でき、受援本部として上手く回るようになった。30日以降の応援隊からの主な要望は、救助活動の要となる捜索範囲の助言、登山ルートの案内といった救助活動に必要な情報の提供と先導役の同行であった。木曽広域消防本部は御嶽山登山経験者で山に精通する職員15名をピックアップし、のべ19名の職員が救助活動の先導のために山に登った。
また緊急消防援助隊指揮支援隊長経由で、自衛隊からヘリに付着した火山灰を水で洗い流したいとの要望があり、ポンプ車・タンク車の2台を出動させ、自衛隊の散水作業の支援を行った。
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