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本当は怖い硫化水素の話
ウクライナの硫化水素
話はがらりと変わってウクライナと黒海の硫化水素のストーリーである。地図を確認すると、黒海に流れ込む大河は、ルーマニアのドナウ川、ウクライナのドニエストル川、ドニエプル川、ロシア領アゾフ海に注ぐドン川、トルコのクズルウルマク川等である。一方で、外洋とはわずかに浅海部がボスポラス海峡を経て地中海とつながっているのみである。このため黒海の海水は表層部で塩分濃度が1.7%と極めて低く、常に酸化環境にある。一方、 水深200m以深の深層部では、嫌気性環境で生物はほとんど棲息できない。ここでの塩分濃度は2.2%程度である。その深層部では海水中に硫化水素が生成し海水中の鉄イオンと強く結合して黒色の硫化鉄を生じる。これが黒海の名称の由来である。
もうひとつ、ウクライナに関して硫化水素関連で懸念されているのが、マリウポリの硫化水素流失リスクである。マリウポリが陥落してから、海に迫る緑色の液体のことが伝えられている。あのアゾフスタリ製鉄所が保管していた何万トンもの高濃度の硫化水素が、建物の攻撃で崩壊した可能性が高いという。そこから流出した有毒な硫化水素が海に流れ出す危険性が高まっているという。
アゾフ海に流出すると植物や動物がすべて死滅するだろう。さらに、地中海にまで流出すれば、生物の死滅など、世界的な大惨事になる恐れが指摘されている。もちろん、人体に悪影響を及ぼす硫化水素は高濃度では呼吸困難などで死に至るケースもある。このように、どこでも硫化水素は厄介者である。
湯守は命がけの仕事
まだ寒い2025年2月、福島市の高湯温泉で、山中にある源泉の管理に行ったホテル関係者3名が、硫化水素中毒で死亡した。温泉地では「湯守」と呼ばれる人たちが源泉の維持や清掃を担うことで、利用客らが入浴を楽しめる現実がある。
発見当時、現場では消防隊員の活動基準となる5ppm以上の高濃度の硫化水素濃度が測定されたらしい。亡くなった3名は支配人と従業員である。火山ガスから身を守るための空気ボンベや防毒マスクは身につけていなかった。ただホテル側によると、硫化水素の測定器や無線機は持参していたという。
温泉関係団体の専門家によると、硫化水素の人体への影響は体重やその日の体調などによって異なるが、数百ppm以上の濃度になると多くの場合、一瞬で意識を失い、最悪の場合は死に至る「ノックダウン」状態に陥る。倒れた人を助けようとして巻き込まれる「二次災害」が起きやすいのも硫化水素など火山ガスの事故の特徴だという。温泉利用客に対する安全策としては、環境省が定める浴室の硫化水素濃度や、施設の換気の基準がある。一方、労働者の安全策は各施設に委ねられており、関係者らは「命がけの仕事」だと話すという。
硫化水素中毒などを防ぐために定められた「酸素欠乏症等防止規則」では、下水道施設などの作業は想定されているが、温泉地はその対象になっていない。仮に規則の対象となれば、測定器の利用やボンベやマスクから成る「空気呼吸器」の使用が義務付けられる。
環境省のガイドラインでも濃度が高い場所では空気呼吸器の使用を推奨している。ただ、専門家は「ボンベは重く、消費も早い」とし、高湯温泉のような硫黄泉では温泉成分で詰まりやすい引き湯パイプを頻繁に清掃する必要があるため、厳密な適用は難しいと指摘する。消防にとっても重い空気呼吸器の装着を温泉の主人に義務化するのは無理があるのかもしれない。
訓練での硫化水素シナリオ
このところ、CBRN訓練シナリオで硫化水素が使われているものを散見する。例えば、Y県I市の山陽新幹線新幹線駅での訓練である。4月に開幕した大阪・関西万博に絡んだテロの発生を想定したものである。新幹線ホームで「不審物から異臭が発生し、付近で人が倒れている」との想定の下、乗客の避難誘導や不審物処理の手順などを確認したという。
吹きさらしの新幹線ホームでバイナリーの硫化水素を発生させてもそれほどの濃度にはならないかもしれない。ホーム上の暖房の効いた待合室に秘密裡に発生装置を仕掛けられて中の乗客数人が意識を失ったといったシナリオもあるだろう。過去にはオーストラリアでイスラム過激派の影響下のテロリストが旅客機のキャビン内でバイナリーの硫化水素発生装置でテロを企てた未遂事件もあった。密閉空間では相当の濃度になることは、バクスター博士がシミュレーションしている。
2023年秋には、「神だぞ、オレは!」と叫び、硫化水素入りペットボトル投げナイフ振り回している不審者を取り押さえるというシナリオで化学テロ対処訓練が行われている。やや、無理がある想定かもしれない。硫化水素は、常温常圧では無色の気体であり、液体ではない。圧縮液化ガスの形で、ボンベなどで利用されることはある。
おわりに―使わないわけにはいかない
下水道の老朽化は進んでいる。国土交通省の統計によると、2022年度末時点で全国の下水道管の総延長は約49万kmで、そのうち標準的な耐用年数である50年を超えた下水道管は約3万km(全体の約7%)に上る。これが2032年度には約9万km(約19%)となる。どこで今回の八潮のような陥没が起きても不思議はない。しかし、日々の暮らしの中で下水道を使わないわけにはいかない。
一方で、ドローンのような最新技術を下水道の内部確認や老朽化対策に活用できることを今回の事例で消防も含めて多くの関係者が認識した。今後は、下水道関係者や自治体、消防、ドローン業界等が連携して、どのようにドローンを活用していくかを議論していくことが重要かと思われる。さらに、下水管点検は人による目視点検が義務付けられており、法定点検においてドローンの使用が認められていないという。このような法令が技術の進展に追いついていない現状はどこにでもあるだろう。八潮で亡くなられた運転手のためにも、改善が望まれる。


浜田昌彦株式会社重松製作所 主任研究員
1956年、山口県生まれ。1980年、陸上自衛隊入隊。化学科職種で約30年、化学兵器防護、放射線防護分野で活躍。この間、化学学校研究員、技術教官、教育部長、陸幕化学室長等を歴任。1999年から2002年まで、オランダ防衛駐在官兼OPCW(化学兵器禁止機関)日本代表団長代行。2013年に化学学校副校長を最後に退官。元陸将補。退官後は、株式会社重松製作所主任研究員、またCBRN防護のアドバイザーとして講演や各種セミナー等にも参画。著書に「最大の脅威CBRNに備えよ」「消防のための除染の教科書」「検知の教科書 CBRN事態対処の基礎知識」(すべてイカロス出版刊)がある。