できる隊長の「発想」と「行い」

青山 省三 Aoyama Syozo

Aoyama Syozo 渋川広域消防本部 消防長

Interview

できる隊長の「発想」と「行い」

「1頭のライオンに率いられた羊の群れは、1匹の羊に率いられたライオンの群れに勝る」
   ―ナポレオン・ボナパルト
強い隊や組織になるかどうかは、隊長次第である。

渋川広域消防本部の消防長 青山省三は、この数年で組織力を大きく引き上げた立役者として全国から注目を浴びている。青山消防長を訪ねて最初に驚いたのは活動服で出迎えてくれたことだ。消防長に就任して最初の1週間は、制服で勤務していたという。総務課と消防長は制服勤務が通例だった。が、ひどく居心地が悪かった。服務規程を調べると、「制服または活動服」と書いてある。2週目からは活動服で勤務するようにした。すると、だれに強制された訳でもなく総務課も全員活動服で勤務するようになった。全職員が常に臨戦態勢である。消防本部全体が活気あふれる雰囲気になった。その後、青山消防長が率いる組織はアクティブに変身していく。彼はどうやって部下のやる気を引き出し、組織を活性化していったのか?

写真◎粟井信行(昭和基地¥50)
Jレスキュー2017年3月号掲載記事

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私はいかにして部下のやる気を引き出したか?

俺たちはなんて前時代的なんだ!

〈このままではダメだ、変わらなければならない〉と最初に思ったのは、消防本部に入職して約18年目、40歳のとき。消防大学校で「予防課」に入校したときだった。

消防学校の教官2年目だった上尾市消防本部の田島孝一さん(現・上尾市消防本部消防長)が「青山さん、こういうの見たことある?」といって東京消防庁初任科の初任教育をまとめたビデオ2本をダビングしてくれた。そのビデオには資機材の取扱要領、ホースの呼び方・巻き方、小隊の運用法、単隊の場合、連携の場合、中隊運用、ペア運用、空操法、水操法などが微に入り細に入りまとめられていた。東京消防庁は職員数が多いから、全員が同じ活動ができるように作成していたのだろう。それを見て「こういうことだったのか。俺たちは今まで何をやっていたんだ?」と目から鱗が落ちた。

恥ずかしながら、当時の群馬県消防学校の初任教育は半年間にわたる「消防ポンプ操法(現・消防活動訓練)」・80時間の授業で、ひたすら消防団が競技会で行うポンプ操法を繰り返し教えていた。東京消防庁の初任教育とは内容もレベルも全くかけ離れたものだった。

群馬県消防学校に教官として派遣された2年間、1年目はすでにカリキュラムが確定しており内容の変更はできなかったが、2年目は学校にかけ合って一部を実戦に即したものに変えることができた。「これからの若者には実戦的な教育をしなければ」という思いで懸命に初任科生を指導したが、たまたま私が教官として務めた2年間は渋川消防の採用人数が少なく、初任科に在籍していた生徒は2年間でたったの1名だった。

「こんなに一生懸命に教えていても、自本部の職員は1人しかいないじゃないか」

それに気づいた私は、早く本部に戻って渋川消防の若手を教育したいと、本部で何をすべきかをあれこれ考え始めた。

現場指揮官にならねば!

私の消防という仕事への向き合い方を変えたもう一つのきっかけは、佐々敦行氏の著書との出会いだった。県消防学校で教官を務めていたある日、ふらっと本屋に入ると『浅間山荘事件の真実』という本が目にとまった。この事件を実況中継したテレビアナウンサーが書いた本で、自分が幼い頃に騒がれていたあの事件はどんな事件だったのだろうと興味を持ち手に取った。買って帰り読み終わってあとがきを読むと、著者は「佐々敦行さんの本を読んでこの本を書こうと思った」という。これは佐々さんの本も読まなければと『連合赤軍「あさま山荘事件ー実戦「危機管理」』を読み、初めて現場指揮官の何たるかを知った。

私にとって消防は憧れて入った世界というわけではなく、周囲の勧めで進んだ道だった。私が入職したのは渋川広域消防の発足直後で、人員は十分にいるが上層部の職員数がやたらに多く、30歳になっても部下が増えず、昇任試験も行われていなかった。そんな状況だから若手が重要な仕事を与えられることもなく、いつ隊長になれるのか先が見えない。自分が隊長になるイメージがわかないので、「隊長」を意識することもなかった。そんなとき出会ったのが佐々氏の本で、「俺は絶対に現場指揮官になる」と強く心に誓った。現場指揮官にならなければ消防官として大成したとは言えないし、不完全燃焼のまま生きていくことになる、と思い至ったのだ。

現場主義を通す

消防が舐められている、格下に見られているという悔しい思いもあった。広域消防として発足して間もなかった渋川広域消防本部は、職員は旧各本部からかき集められた状態で署長クラスも40歳過ぎの若手だったため、市の他部署と同等に渡り合える組織力がなかった。そんな状況が歯がゆく、なんとか自分の仕事に誇りを持てるようになりたいという思いが、組織全体を考えるようになった背景にあったのだと思う。

県消防学校教官の2年の任期を終え、いよいよ渋川広域消防本部に帰任する段になって、心配なことが一つあった。消防学校派遣から戻った職員は、予防畑を歩むのが渋川消防の慣例だった。それを危惧した私は、事前に配属先の希望を聞かれるヒアリングで「救助隊に戻りたい」とアピールした。一般的には予防畑が出世コースである。当時の消防長には「本当にいいのか?」と念押しされたが、現場指揮官になるには「もっと現場を経験しなければダメだ」と考えていた。願いは聞き入れられ、特別救助隊に副隊長として配属されることになった。

青山消防長
「人は環境で変わる」と実感を込めて語る青山消防長。
実践できない時は貯めておく

消防本部に戻って導入したいこと、変えたいことは山ほどあったが、すぐに何でも実行できたわけではなかった。むしろブレーキをかけられ、挫折して悔しい思いをすることの方が多かった。たとえば、東京消防庁が行っている職員の技能を管理する評価システムを導入したらどうか? と提案すれば「時期尚早」と却下され、「今まで問題がなかったのに、なぜ変える必要がある?」と返された。

〈変える〉というハードルは想像以上に高かった。ならばせめて自隊だけでも、と自分の隊だけで新たな取り組みを始めることにした。最初に着手したのは、2次点検時に毎回防火装備を着装しての点検を行うこと。体感しなければ覚えない、という信念があったからだ。

近年、渋川消防が開催している勉強会には全国の本部からの参加があり、そこでいろいろな質問を受けるが、一番多いのが「どうやって改革できたのか? やる気のない隊員をどうやって変えたのか?」という質問だ。全国には当時の私と同じように、思うように改善できずに悔しい思いをしている職員がたくさんいるのだと思う。私の場合は自分が改革可能な範囲を少しずつ広げつつ、様々な経験を積んで自分の知識を増やしながら、「自分は絶対に変革嫌いの反面教師にはなるまい」と情熱をたぎらせていた。いつか自分の考えを認めてくれる上司の下についたとき、自分のプランをすぐに実行するための充電である。チャンスは必ず訪れると信じて思いを持ち続けていた。

教育は嘘をつかない

転機は平成21年に訪れた。消防本部の警防課装備の課長補佐として指揮隊の編成と警防業務の規定改正を任されたのだ。本部に所属していれば、消防長に直接伺いを立て決裁を得ることができる。消防長の決済があれば、全消防署所に通知できる。これは大きなチャンスだった。

組織を進化させるには人材育成が絶対不可欠と確信していた私は、このチャンスをいかし現行の教育・訓練計画の見直しに着手することにした。

それまで教育は各署所の当直責任者に委ねられており、訓練に熱心な責任者も一部にいるものの、何もせずにやり過ごそうとする責任者が大半だった。そうした現場任せの体制は止めるべきだったので、訓練は本部で作成した訓練計画に従って行う方法に変えた。新人教育に関しては、渋川消防の地域特性や活動法を習得させるため、初任教育を終えた新人をすぐに署所には配置させず1ヵ月間は本部所属の日勤勤務とし、集中的に座学と実技教育を行うことにした。今年度で8年目になるが、ちょうど団塊世代の大量退職、大量採用期と重なり、8年間で全職員160人中80人が入れ替わり、その教育方法で育った職員が全体の半数を占めるようになった。消防本部全体の組織としての進化を感じる度に「教育は嘘をつかない」ことを実感している。

世界の名リーダーたちの言葉
消防本部の廊下には、青山消防長から職員のメッセージとして、世界の名リーダーたちの言葉を掲示している。
教育改革のための6項目

隊長を育てなければ、隊は育たない。新人教育に着手した同年、次期隊長となるポジションにいる職員には、現場ではOJTとして隊長の役割をやらせ、本来の隊長はサブに控えてサポートさせるようにした。

昔から仕事は一つ上の階級、ポジションを考えて行うことで成長すると言うが、イメージするといってもなかなか難しいものがある。それは自分の経験からも感じていたので、たとえば立入検査のときに本来の隊長でない者に責任者として対応させたり、災害対応時にも指揮者としての活動をさせるなどして経験から学べるようにしている。

平成23年には教育改革として次の6項目を掲げた。

1 人材育成
2 合理化の推進
3 5S運動(整理、整頓、清潔、清掃、しつけ)
4 一人一人の明確な目標を立てる
5 仕事に責任を持つ
6 公務災害、交通事故ゼロ

2の合理化の推進はその人材育成に費やす時間を確保するために掲げたものだ。たとえば、以前は日曜日を掃除の日として半日かけて掃除をしていたが、そうなると日曜当務の職員はその日の半日が掃除でつぶれてしまう。そこで各当務ごとに「環境美化委員」を指名し、掃除場所を小分けに配分。環境美化委員の指示でその日の分担をローテーションで担当することで、一回にかける時間を減らすことにした。また、各自自由に過ごしがちだった夕食後の時間帯も、休憩時間を管理して規律を正し、時間を有効に使えるようにした。

3の5S運動の一つであるしつけについては、どんな時にもきちんと「挨拶」させることを徹底した。消防は地域に密着した行政サービスであり、要請時に活動するだけでなく、とくに防災面では市民の協力が必要な場面も多い。今ではどんな来客にも全職員の方から元気よく挨拶し、おもてなしのマインドを持って接している。最近は、自分が直接対応する客以外には挨拶をしない気風が蔓延しているが、皆がきちんと挨拶を交わすことで組織の格が上がり、市民から厚い信頼を得られるようになる。

4にあげた明確な目標とは、それぞれの職員に目標を持たせ、達成感を感じることで各自のモチベーションアップを促すもの。人事異動があるたびに上司が部下の一人一人と面接し、それぞれの性格を把握したうえで年間目標を立てさせ、四半期ごとの達成度を管理するようにしている。

負けたくないから

私のやり方は少々荒っぽいので、最初は誤解を受けることもあったと思う。

かつてのぬるま湯の本部を共に歩んできた職員たちに「職制のある者が何も考えずに仕事に来るな! 非番、週休日に何が起こったのか、その週に何が起こっていたのかをちゃんと調べ、今日は何をすればいいか考えてから来い」と皆の前で叱ったりすることもあった。

本格的に組織改革に着手できたのは私が指揮隊長になった54歳のときなので、残された時間に限りがあった。5年計画、10年計画などと悠長なことは言っていられなかった。強引とも言えるやり方で変革を進めてこられたのは、言われた悔しさをバネにした憤り、負けたくない気持を自分のパワーにできたからだ。外圧にくじけてしまったらリーダーにはなれない。負けたくないと立ち上がるからリーダーになれるのだ。一緒にやってきた部下たちは、共に戦う戦友と思っている。我々職員は運命共同体だ。もし部下がミスっても「俺は聞いていない」と逃げたりはしない。全力でカバーするのがリーダーというものだろう。

広報掲示コーナー
「渋消式火災防御戦術受託研修」
広報掲示コーナーも「防火の広報だけでなく、自分たちの取り組みをもっとPRしていけ」という青山消防長の声かけで、予防、警防業務や全国から有志で集まって開催されている「渋消式火災防御戦術受託研修」が初回から掲示されている。
若手のやる気を引き出すMBWA

消防長になった平成27年からは朝の交替直後、消防士長以下の若手職員だけを集めて意見交換会を行っている。若者の意見を積極的に取り入れるためで、幹部や直属の上司にはなかなか言えないことも含めて自由に話してもらおうと、消防長室の応接室に職員を集める。分署に出向いて話を聞くこともある。これがなかなか、建設的な意見が出てくる。精査が必要なものは本部担当部署に持ち帰ってその日のうちに回答を出すようにしているが、すぐに採用すべきだと私が判断できるものはその場で「やる」と決定し、その日のうちに全署所に通知を出す。とにかく、提案に対する回答はすぐやることに意味がある。「消防長が俺の意見を聞いてくれた。また次もよい改善案を出さなければ」というモチベーションにつながるからだ。これをすぐにやらなければ、言っても無駄だと意欲を失わせることになる。

たとえば、ある消防本部で消防車の鍵を閉じ込めてしまい、出動にロスが発生する事故が起きた。それを受け、若手から「救急車はスペアを含めて鍵を4つ作ってあるが、消防車は2つしかない。そのうち1つは本部に保管しておかなければならないから、同じような事故があったときにすぐに対応できない。救急車と同様にスペアをもっと作った方がよいのではないか?」という意見が上がった。私はその通りだと判断し、すぐにスペアを増やすように通達した。

上司と部下の関係にはいろんな考えがあり、階級を隔てた下の者とが近しい関係を持たないほうがいいと思う人もいるだろう。私はけっして中間管理職を信用しないわけではないが、私の立場の人間が直接現場の意見を聞き、問題点はすぐに改善すべきだという考えだ。マネージメント・バイ・ウォーキング・アラウンド(通称MBWA)という、指揮官が直接現場を歩き回り現場の声を聞くというリーダーシップ論がある。米海軍でお荷物扱いだった戦艦を海軍ナンバーワンに育て上げ、『即戦力の人心術』(三笠書房)を記したマイケル・アブラショフの言葉で、最近またこれを再読して「自分がやっていることと同じだ。自分の方法論は間違ってない」と確信した。この本は民間企業向けのビジネス書として読まれているが、これに書かれている「現場の声を聞く」という方法論は消防の組織運営にも共通する。消防の組織運営が必ずしもビジネス書通りに行くとは限らないが、自分の方法論の裏付けとなって自信が得られたり、ヒントをもらえるという点で、ビジネス書は大いに使い道があると思う。

気づきの機会を与える

職員の教育でもう一つ重要なことは、「気づかせること」であると思っている。教育改革を始めた当初、火災と戦うためには新人も管内の状況を把握しているべきだと思い、A3の白紙を1枚ずつ渡して「ここに○○地区の水利、防火対象物を書け」と命じた。その結果、白紙で提出した新人が何人かいた。そのときは「自分の弱点がわかっただろう」とだけ言ったが、翌日から彼らは非番や休みの日に先輩職員らと地域をまわり、管内の水利、防火対象物等を頭に叩き込んだ。

それからは毎年、教育係の先輩職員が必ずこれを新人に書かせるようになって、よい教育サイクルができている。また、ときどきは抜き打ちで職員らに「これを知ってるか?」と聞いたりもする。人は誰でも試されるのが嫌だと思うが、精強な部隊を作るためには、自分に足りない部分は自分で気づかせることが大切なのだ。

副隊長制度を取り入れて、若手も業務連絡を行っている。
副隊長制度を取り入れて、若手も業務連絡を行っている。青山流の教育方法だ。
教えることで学べること

平成21年度から初任教育卒業後に本部で行っている1ヵ月集中教養についても、当初は教育係に係長や消防学校の指導員を当てていたが、2、3年後から平成21年度以降に指導を受けた若手を指導役に回らせることにした。教えるということは、教えられる側の3倍の知識が必要だから、新人には「1年後に自分たちが新人を指導する立場になる。もしこの1年をサボったら二度と這い上がれないぞ」とハッパをかける。新人を厳しく育てるのは、自分が若いときに大切な時間を無駄にしてしまったという苦い思いがあるからだ。どれだけ自分は何もしないで漫然と過ごしてしまったのか。それを指摘してくれる人もいなかったが、その環境に甘んじていた自分にも腹が立つ。1年目でも2年目でも、ちゃんと教育すれば人は育つ。今の職員は、渋消式火災防御戦術の勉強会をやると、若手でも人前で堂々と訓練展示し、全国の大先輩とも対等に話ができるようになっている。その姿を見て、「人をつくるのは環境なんだなあ」とつくづく思う。教育は嘘をつかない。

この8年間に入ってきた80名は、自信を持って自分の仕事に取り組んでいる。私は究極の負けず嫌いだから、自分が負けるのが嫌で「負けるものか」と思いながら自分を厳しく律してきたが、職員も私についてきてくれた。渋川消防の職員たちも私に負けず劣らずの負けず嫌いなんだ。

部下は家族

若手を育てる中堅には「上司部下の関係ではなく、家族と思って部下に接しろ」と言っている。我々は民間企業と違って、利益を出してボーナスをたくさん貰おうという組織ではない。どんなに頑張っても給料が増えるわけではないし、利益もないのに危険な活動を行う。最悪の場合は死に至る可能性だってある。信頼関係が築けていなければできない仕事だ。

最近も、部下がミスを繰り返したことで、その上司を叱責した。新人が二度にわたって消防車両を擦ったのだ。いまどきの若者は車離れが進んでおり、消防車両の運転が得意でない職員も少なくない。中には業務中に車両を擦る者もでてくる。もともと運転が得意でないうえに注意力に欠けるタイプは、同じ事故を繰り返す可能性も高い。そこで新人の上司が二回目の謝罪に来たときに「謝罪は所属長と隊長で来い。お前らは何をやっているのか?」と声を荒げてしまった。これが自分の子供だったらどうなんだ? やっと自転車に乗れるようになった子を、いきなり交通量の多い幹線道路に行かせたりするか? 絶対に事故など起こしてほしくないから、安心して道路に出せるように口やかましく教育するはずだ。きちんとできるようになるまで指導しないから二回目が起こるんだ、と言った。我々は運命共同体なのだから、部下は家族と同じ。だから、部下の教育は自分の子どもに注ぐような愛情を持って行うべきだと私は思っている。

地域の清掃に積極的に参加している
5S運動の一つである清掃の取り組み。日常的な地域清掃に加え、5月30日にはごみゼロの日、9月30日は草ゼロの日として地域の清掃に積極的に参加している。
渋消式火災防御戦術

我々は約5年前から「渋消式火災防御戦術」という少人数ですばやく対応する戦術を考案した。これが『Jレスキュー』など雑誌にも紹介され広く知られるようになると、全国からこの戦術を習いたいと研修の依頼がくるようになり、平成25年から年に一回、全国勉強会を開催している。初回の参加者は38名だったが、翌年は82名になり、さらにその翌年は160名と倍増、ついに県消防学校を借りて開催する規模になった。このほかにも、受託研修、講師派遣の依頼を受けており、平成29年3月までに計77回の研修会を行っている。

勉強会には北は青森県から南は沖縄県まで、この群馬県の渋川まで自費でやって来る。もともとモチベーションの相当高い人たちだが、最後にはさらにモチベーションを上げて帰っていく。彼らもきっと「変えたい」という思いを抱えているんだと思う。勉強会を通して、我々がずっと悔しい思いをしてきたこと、思いのたけを知り、変革に何が必要かをわかってくれたっていうことなんじゃないかと思う。

自分を認めてくれた上司に応えたい
賛同する仲間がいたから変われた

渋川を改革できたのは、同じ考えを持っていた仲間がいたからだ。けっして天狗にはなっているわけではないが、渋川の職員らはどこにだしても恥ずかしくない消防官に成長している。渋川がここまで変われたのは、けっして私一人の力ではない。同じ気持ちを持ち、ついてきてくれた職員、このままではいけないと気づいた職員がいたから。

若手からときどき「ありがとうございます、渋川消防に入れて自分は幸せだ」などと言われることがあるが、そんなとき私は「俺がすごいんじゃなくて、大事なことに気づけたお前たちがすごいんだ」と答える。そして、この改革を実行させてくれた上司がすごいのだと思う。

当時の中村消防長と楯総務課長から改革を任せられた時、「必ず変えてみせる。絶対にこの人たちに恥をかかせない」と誓った。男は認めてもらえれば、恩返しをしたいと思うものだ。

私は完璧な人間ではないし、自分のやり方が一番だとは思っていない。だから部下たちには常々「俺が間違っていたら、勇気を持って意見具申をしてくれないと困るんだ」と言っている。組織というのは、進む方向が間違ったときに、修正してくれる仲間たちがいるから進んでいけるのだと思うから。(談)

部下から見た青山省三

本署第2課 指揮係長    総務課 企画消防係長
消防司令補 荒井 明     消防司令補 荻原 建夫
一言でいうと「渋川消防という名の組織を変えた男」
そして、全国の消防を変えるきっかけを作った男です。

進化が始まる前の渋川広域消防は、歴代から続いてきた方針に何の疑問も持たず業務を進める職場だった。上司に何らかの改善策を提示しても、部下からの意見が聞き入れられることはあり得ない状況で、「何も言わない」「何も考えない」という負のスパイラルに陥っていた。

かつては災害対応に対しても一定の形が決まっておらず、災害が発生してから初めて戦術を現場で判断するようなやり方だった。職員同士が異なる活動方針で活動しているから、現場が混乱して活動をいったん中断して方針をすり合わせるケースすら発生することもあった。

平成23年4月、現青山消防長が本署の課長に就任したときから渋川広域消防の進化が始まった。

当直時は開口一番「今日は何を考えて仕事に来た?」「何をしたい?」「何も考えないで仕事に来たのか!」とその日の目標を問われ、答えられなければ「何も考えずに仕事に来るな!」と一喝。沈黙の時間が流れる日々が続いた。

青山課長の下で仕事をしていた職員からは「地獄だ」「仕事に来るのが嫌になった」「仕事を辞めたい」「24時間気が抜けない」などの声も聞こえていたが、中には負けず嫌いな職員がいいて、「今日は何を考えて仕事に来た?」「何も考えないで仕事に来たのか!」と問われれば、「絶対に言われる前に言ってやる」とムキになって出勤前に小さなメモ帳にその日にやること、やりたいことを書き込み、朝一番で渡す職員が現れるようになった。そうして時間単位で記入できる当直の予定掲示板が誕生した。

それまでは、思考停止してしまったような職員が数多くいたが、これを契機に職場の雰囲気がみるみる変わっていった。自分達の考えた意見を聞いてもらえる環境が作られ、職員一人一人が上司から言われなくても自ら考える雰囲気に変化し、職員の意識改革が進められていった。

管理職は部下から出された予定を掲示板に記入し、一日の業務構成を見直した。「やってみろ」と背中を押される空気が漂い始めた。失敗が生じた際は親身に対応し、やるべきことをやらなかったときには容赦なく叱咤された。とくに職制を持った職員に対しては別格の厳しさがあった。

この厳しさは尋常ではなかったが、厳しさの裏には常に被災者に立った目線がある事が伝わってきたため言い返す言葉が見つけられず、自然に行動で見返すことを常に考えるようになる雰囲気が醸成されたと思う。

こうして青山消防長は渋川広域消防の組織を変えていき、現在では全国から注目される消防本部を作りあげた。

もちろん、その改革についていった私達消防職員一人一人の気持ちが一つとなったからこその改革でもある。

渋川広域消防のキャッチフレーズは「自ら考え行動する組織」。

今、それぞれの職員には、自分が不安に思っていること、逆に挑戦してみたいと思うことがたくさんある。その考えを全体で考え、行動できる組織になれば、最強の消防に生まれ変わっていくと思う。

必要なのは「上司は部下をうまく使い、部下は上司をうまく使う」こと。

お互いをうまく使い合うことによって合理性が生まれ、仕事が楽しくできる環境へと進化していくと思う。

消防という組織は、一人の力で強くしていくことはできない。消防職員として今、何をすべきか。何をしなければならないか。誰しもが考え始めているが、組織を変えるためにはその思いを実行に移さなければ何も変えることはできない。我々の仕事のすべては被災者のためにある。消防人という誇りを胸に、さらなる高みに挑戦していこうと皆が思っていることこそが、青山消防長が最も望んでいることだと思うし、我々職員もそれに応えていきたいと思っている。

「1頭のライオンに率いられた羊の群れは、1匹の羊に率いられたライオンの群れに勝る」    ―ナポレオン・ボナパルト 強い隊や組織になるかどうかは、隊長次第である。
渋川広域消防本部の消防長 青山省三は、この数年で組織力を大きく引き上げた立役者として全国から注目を浴びている。青山消防長を訪ねて最初に驚いたのは活動服で出迎えてくれたことだ。消防長に就任して最初の1週間は、制服で勤務していたという。総務課と消防長は制服勤務が通例だった。が、ひどく居心地が悪かった。服務規程を調べると、「制服または活動服」と書いてある。2週目からは活動服で勤務するようにした。すると、だれに強制された訳でもなく総務課も全員活動服で勤務するようになった。全職員が常に臨戦態勢である。消防本部全体が活気あふれる雰囲気になった。その後、青山消防長が率いる組織はアクティブに変身していく。彼はどうやって部下のやる気を引き出し、組織を活性化していったのか?
写真◎粟井信行(昭和基地¥50) Jレスキュー2017年3月号掲載記事

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