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【活動ドキュメント】 熊本市消防局特別救助隊 生後8ヵ月女児、奇跡の救出劇の全貌
4月15日、前震で倒壊した益城町安永地区の家屋の中から、生後8ヵ月の女児が無傷の状態で救出された。
この奇跡の救出は、余震の続く中、熊本市消防局の隊員たちが
決死の覚悟で臨んだ「攻めの救助活動」のたまものだったのだ。
写真提供◎熊本市消防局
Jレスキュー2016年7月号掲載記事
消防司令補 古田祐一
熊本市消防局
東消防署警防課二部
特別救助小隊小隊長(取材当時)
臨時の隊を編成する
前震が発生した4月14日、熊本市消防局東消防署警防課特別救助隊2部の小隊長を務める古田祐一は非番だった。合志市の自宅で子供たちを寝かしつけ、ほっと一息ついていたときである。21時26分頃、ドーンと下から突き上げ、次に横にゆさぶられる激しい揺れに襲われた。古田は緊急消防援助隊として東日本大震災に出動したことがある。その際に震度5弱の揺れを経験しているが、今回の揺れ方はそれ以上だと直感した。同局では震度5弱以上で自主参集する体制をとっているが、地震速報を確認するまでもなく震度5弱はあると判断し、所属する東消防署へとバイクを飛ばした。
消防署に着いたのは22時頃。非番の職員たちが徐々に集ってきており、非番の大隊長により臨時の隊が編成されつつあった。救助工作車は当務の特別救助隊が運用するため、古田は週休だった反対番の特別救助隊小隊長である小森博文と、2部の特別救助隊隊員である酒井司、1部の若手ポンプ隊員柴田真伍で臨時隊を編成し、特殊災害対応自動車を運用することになった。倒壊家屋からの救助事案が多いだろうと予想し、チェーンソーやバールを車両に積載したところで、最初の出場指令が入った。益城町内にある益城病院付近でブロック塀に挟まれた人がいるという通報で、すぐに現場へと急行した。
熊本市内から益城町方向に進むにつれ、1階部分が潰れた家屋や完全に崩落している家屋、崩れたブロック塀などが目立つようになってきた。道路に関しては、同隊が通ったルートはそれほどの損壊もなくスムーズに車両を進められたが、目に入る光景からは、救助要請がこれからどんどん増えていくであろうと容易に想像できた。
あるものを工夫して使う
現場に到着しさっそくトリアージしたところ、塀に挟まれた要救助者はどう見ても黒(社会死状態)だった。助け出そうかとも考えたが、生き埋め事案が多数発生しているであろう今、救助隊員は少しでも生存の可能性のある現場に行った方がいいと判断。小森小隊長と相談し、現場付近にいた熊本県警察に後を引き継ぎ、古田たちは次の現場へ向かうことにした。
次に要請を受けて向かった現場は、益城町木山地区にある2階建てのアパートだった。完全に崩落している1階部分に70代の女性が閉じ込められているという。古田たちが現着すると、同じく臨時編成されたポンプ車隊が先着しており、要救助者とボイスコンタクトを取っているところだった。状況を聞くと、要救助者は呼びかけに反応するものの、救出するための救助資機材がなく、ポンプ車隊だけではどうにもできないとのことだった。
古田たちはまず、開いていた窓から内部進入を開始。声掛けを通じて要救助者がどのあたりにいるのか見当をつけ、持参していたチェーンソーやバール、のこぎりを使って2階床面・1階天井を剥いでいった。梁部分まで剥いだところで要救助者の身体を視認。うつぶせ状態で倒れており、左足が瓦礫にはさまって動けない様子だった。救出するには崩落物を持ち上げるための資機材が必要なのだが、専用の資機材はない。そのとき古田は、以前先輩から「エアマット等がないときは、車用のジャッキが代用できる」と教えられたことを思い出した。さっそく隊員たちに近所の車庫などからジャッキを探してきてもらい、間隙を作ることを試みた。木山地区には多数の崩落現場があり特別高度救助隊も近場で活動していたため、さらにエナパック(簡易的な手動式油圧救助器具)を借り、2つを併用することで要救助者を無事救出できた。
要救助者はクラッシュ症候群を発症するほど長時間挟まれていたわけではなかったが、念のため熊本赤十字病院のドクターを現場に要請。混沌とした災害現場においても、万全の態勢で救助活動を行うことができた。
同現場がひと段落すると、一刻でも早く次の現場に向かいたかったが、東消防署と益城西原消防署の署活系無線は混信しておりなかなか情報が入ってこない。だがこの2つの事案に関わる中で、被害が大きいのは益城町だということはわかってきた。待っていても仕方がないため、積極的に情報を得るべく古田たちは益城西原消防署へと向かった。この時点で日付はすでに15日に変わっており、時計は1時頃を示していた。
安永地区の現場が気になる
勢い勇んで益城西原消防署に到着すると、車庫内に現場指揮本部が立ち上がっていた。しかし、ここでも情報が錯綜しており、どこでどんな事案が発生し、どの救助資機材が必要かという情報は入ってこなかった。しばらくすると益城西原消防署の救助隊員が安永地区の倒壊現場から一旦帰署してきて、「生き埋めになっている要救助者がいる」「その現場に重機が入るかもしれない」と現場指揮本部の職員に話しているのが聞こえてきた。その現場に東消防署の当務特別救助隊員がいることもわかった。この現場こそがまさに、後に古田たちが生き埋めになっている8ヵ月の女児を救出した現場なのだが、このときの古田たちがそれを知る由もない。
ここでじっとしていてもしょうがない。そう考えた古田たちは、情報のないまま県道28号熊本高森線沿いへと向かい、目についた倒壊現場を中心に検索活動を行った。
「誰かいませんか? いたら物を叩いてください」
懸命に呼びかけを行うものの、人の気配はないようだ。
「やっぱり、益城西原署の救助隊員が話していた安永地区の救助現場が気になるな」
検索の結果、このあたりに生き埋め者がいないことを確認したのち、両隊長がどちらともなくつぶやいた。小森は週休だったため臨時隊として活動しているが、本来ならば当務である1部の小隊長。つまり、安永地区の現場で活動しているのは直属の部下たちなのである。古田にしても4月の異動で直属の部下ではなくなったが、つい1ヵ月前まで2部の古田の隊として共に活動した隊員がいる。どんな活動をしているのか、隊員の安全は確保されているのか、とても気にかかっていた。
加えて、重機が入るかもしれないという話も気になった。先ほど古田たちが救助した現場や隣で特別高度救助隊が救出していた現場を思い返すと、倒壊家屋に埋没していても要救助者が生存している可能性は十分に考えられる。生き埋めになってから時間が経っているならまだしも、発災からまだ3時間程度しか経っていない今の段階では、重機ではなく人の手で検索し、生存を確認したほうがいいのではないかと思ったのだ。他に要請もなかったため、古田たちは安永地区の生き埋め現場に向かうことにした。
まずは人の手で生存を確認したい
古田たちが件の現場へ到着したのは、午前2時を少し回った頃だった。現場には益城西原消防署の救助隊と東消防署1部の特別救助隊、そして安永地区の火災現場(「熊本市消防局益城西原消防署 益城町を火の海にするな!」記事参照)から東消防署の指揮隊が出場していた。生き埋めになっているのは生後8ヵ月の女児だという。
生き埋め事案の場合、まずはどのあたりに要救助者がいるのかを知ることが重要だ。成人ならばボイスコンタクトで場所を特定できるが、相手は言葉が通じない乳児である。先着隊は付近にいた母親から事情を聴取しており、女児は寝室で寝ていて周囲に黄色いキャラクターの毛布や水色の布団、青い毛布などがあるということや、家具の配置状況はわかっていた。
現場の状況は、瓦葺で土壁の木造2階建て家屋が倒壊、1階部分が完全に潰れ、2階が半壊で少し空間がある状態だった。周囲を観察すると東側や北側は2m程度の段差があり、南側と西側は瓦礫に覆われていた。古田・小森両隊長が現場をつぶさに観察すると、南側の瓦礫の中に空隙を発見した。空隙の位置からならば、女児がいるであろう寝室までの距離も短い。現場指揮を執っていた大隊長に「ここから進入できるのではないか」と進言してみたものの、大隊長は決断しかねている様子だった。
というのも、古田たちの隊が到着するまでの3時間のうちに同現場では断続的な余震が発生しており、家屋が2度にわたって段階的に倒壊していたのだ。次に大きな余震が来れば全壊するかもしれない状況で、家屋内に隊員を進入させるわけにはいかず、重機を使うという選択肢も視野に入れなければならない。古田たちが到着したのは、まさにその決断を迫られているタイミングだった。
これまでいくつかの現場で無事救出された要救助者を目にしてきた古田たちは、なんとしてでも重機を入れる前に一度家屋に進入し、要救助者を確認したかった。空隙を発見し進入路が確保できたことも、その気持ちに拍車をかけていた。部下は入れず、元IRT登録隊員でありCSRの心得もある古田と小森の両隊長のみで進入するから、と大隊長を説得し、大隊長も最初は渋っていたものの、最終的には「進入する際はショアリングをし、自身の身の安全を確保すること」「内部にいる時間を決め、時間を区切って段階的に活動すること」を条件に進入を許可してくれた。
許可を得た古田たちはまず進入口周辺の瓦礫をどかし、退避経路を確保。さらに付近に落ちていた梁を隊員に持ってきてもらい、チェーンソーで4本に切断し、少し浮いていた天井や梁などに支柱として立てることで強度を確保した。
制限時間は5分とし、2人が進入を試みる。家屋内の間取りは頭に入っているが、家屋が倒壊しており寝室の位置に確信が持てない状況でむやみに検索するのは非常に効率が悪い。自分たちが検索している場所が寝室に近いかどうかを確かめるために、事前の聴取で聞いた毛布などの寝具をとにかく探そうと思った。
進入した家屋内部は瓦礫をどかせば横方面には空間があるが、縦は50〜60cm程度しか空間がない。這うような姿勢でしか進めず、古田は時間を気にしつつ急いで奥へと進んでいった。3mほど進んだところで瓦礫の中から毛布が出てきたため、いったん毛布を持って外に出た。「この毛布はどこにあったものですか」と母親に確認すると、母親は声を震わせながらも「付近にあったものです」と明確に答えてくれた。これにより、現在進入しているルートで検索を進めることには意味がある、と確信できた。
2回目の進入も制限時間は5分とした。来た道を急いで奥へ奥へと進むと、6m進入した時点で水色の布団らしきものを発見した。その先は1階天井部分と梁が落下しており、梁と地面の隙間には瓦礫や生活用品が散乱していて確認できない状況だった。再度戻り母親に確認すると、子供の布団の横に敷いていたものに間違いないという。しかしこれまで進入したルート上やそのまわりには、女児はいなかった。いるとすれば、梁の先しかない。
3回目の進入は3分と設定し、プロカム(簡易画像検索機)を使って梁の先を見てみることにした。だが梁の先にも物や瓦礫がひしめいており、プロカムを使っても状況がよくわからない。物をひっぱり出そうにも、梁と地面の間は40㎝程度しかなく、ひっぱり出すこともできない。このルートでは梁より先には進入できないため、アタック場所を変えることにした。
屋根上から下方穿孔でアタック
次に試みたのが、北側の屋根上へ登り下降穿孔して検索ルートを確保する方法だ。穿孔場所の精度を上げるため古田が進入口に立ち、屋根側にいる小森とボイスコンタクトを取り梁の位置を知らせた。小森は梁のある位置から1m先を穿孔場所に決定し、瓦を剥いでチェーンソーで屋根材を切り、中にある瓦礫をひたすら出していった。地面に当たるとそこからは梁のある方向に向かって、身をかがめて瓦礫を除去していく。瓦礫の除去は体力を要するため、その場にいた隊員が交替で掘り進めていった。その間にも、大きくはないものの微弱な余震が絶え間なく続いていた。揺れを感じるたびに屋外に退避しながら活動するため、作業がスムーズに進まず、皆不安と焦りを抑えながら、根気強く瓦礫をどけていくしかなかった。
毛布の先にあったもの
ちょうど隊員が交替し、古田が先頭で掘り進めていたときである。瓦礫の山の中から、青い毛布が見つかった。これが母親の言っていた青い毛布ではないかと古田が小森と話していたとき、緊迫した現場には似つかわしくない「アハハ」というかわいらしい声が古田の耳に入ってきた。
「…誰かなんか言ったか?」
「いや、なんも言っとらん」
周りにいた隊員に確認しても、誰も何も言っていないという。でも古田は確かに何かを耳にしていた。
絶対に、この下に女児がいる。そう確信した古田は瓦礫を撤去するスピードをいっそう速めた。そうするうちに、女児の下に敷いていたというキャラクターものの黄色い布団が見えてきた。腹這いになり布団の先に手を伸ばすと、古田の手が柔らかいものをとらえた。布団ごと手前に引きずってみると、それは元気に動く女児の左足だった。
「要救助者発見!」
女児は、梁のわきに偶然できた高さ40cm程度の隙間にすっぽりと収まっていたことで、奇跡的に無傷で生存していたのだ。自分の方に毛布ごと引っぱって元気な女児の顔を見た瞬間、家に残してきた子供たちが小さかった頃のことが古田の脳裏をよぎった。
「生きていて、本当によかった…!」
発災から今まで無我夢中で活動し、要救助者が亡くなっている現場も目にしてきた古田だが、この時は心底、自分たちがやってきたことの意義をかみしめた。
古田は女児を抱きかかえ、屋根の上にいる隊員に渡した。屋根の上は足場が悪いため、一定間隔で隊員が並び、リレー形式で屋根下まで搬送した。現場に来ていた熊本県警察とは合同訓練等で面識があったため、屋根下への搬送を手伝ってもらい、無事救急隊員まで引き渡すことができた。こうして午前3時46分にこの現場でのすべての活動が終了した。
同活動をスムーズに進められたのは、古田たちが到着するまでの間に試行錯誤して梁の倒れ方を検証したり、関係者への聴取をしてくれた先着隊の活動があったからこそだと古田は語る。大隊長は以前共に勤務していたことがあり、古田たちの性格を理解していたからこそ迅速に命令を下してくれた。全員が「女児を助けたい」という思いをひとつにして積極的に活動したからこそ、無事救出することができたのだ。
さらに、運も味方してくれた。古田たちが活動していた時には大きな余震がなく家屋が倒壊することもなかったが、翌日現場を見に行ってみると、わずかに残っていた2階部分まで跡形もなく倒壊していた。倒壊するのがもう少し早ければ、要救助者も隊員も無事ではすまなかったかもしれない。
積極的に行動する
明け方5〜6時頃になると、救助事案要請はある程度落ち着きをみせていた。古田は15日が当務だったため休むことなく8時半には勤務を始め、火災や警戒活動などに出場、その後事務所で報告書を記入していたときに、本震に襲われる。事務所の机が2mも移動するほどの激しい揺れで、急いで机の下に潜り込みながら「本当に今度こそ死ぬかもしれない」と思った。
前震段階ではそこまで損壊していなかった益城町へ続く道路も、本震後はいたるところで隆起しており、当て木を敷いて段差をなくしながらでないと救助工作車を進めることができないありさまだった。この夜、古田たち2部の特別救助隊は益城町平田地区で3名が生き埋めになっている現場に出場した。この現場では1名を救助し、1名が自力脱出、1名が死亡という結果に終わった。
今回の震災は、古田たちにとってはまったく経験したことのない現場の連続だった。しかし、これまでしっかりと訓練を積み重ねてきたからこそ、異常事態の中ででも落ち着いてショアリングやCSRを行うことができ、訓練の大切さを再確認することとなった。また、このような大規模災害時には情報が錯綜したり無線が混信したりしてまったく状況がつかめない事態に陥るため、要請が入るのを待っているだけの受け身の態勢では何もできないことも痛感した。
自ら積極的に情報を取りに行き、現場に向かい、マンパワーや資機材が不足する際は頭を使って代替手段をみずから作り出す。そうした攻めの姿勢が、結果的により多くの人命救助に繋がることを実感した災害であった。
(平成28年5月10日取材・本文中のデータは5月9日現在)