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【コラム】瓦礫の町を走った“オールドタイマー”
大槌町を支えたスタウト消防車(後編)

東日本大震災の津波で、岩手県大槌町の消防団は車両も仲間も失った。
それでも立ち止まらず、支援車両として届いた1台のトヨタ・スタウトと共に、団員たちは再び立ち上がる。
偶然のようで必然だった「再会の物語」は、失われた町に希望のエンジン音を響かせた後編。

写真・文◎鈴木亨(大槌町消防団第2分団)
Jレスキュー2025年11月号「オラぁどぅ元気だがや!」掲載記事

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スタウト消防車
平成23年9月28日撮影の普代村消防団第三分団、表記のままのスタウトです。この後大槌町消防団へと表記が書き換えられました。積載車でありながら、後部には吸水口と放水口が設けられ小型ポンプと小ホースで繋がれポンプ積載状態で放水ができる半固定仕様でした。現在の全自動積載車に通じるものがあり、当時としては斬新な仕様だったと思われます。

我々安渡消防の元にやってきたスタウト積載車は早速地区内の巡回や避難所からの食事受領等に、その小さな車体を活かし活躍し始めました。残存した安渡1号車より小回りが利いたため、普段はスタウトを使う事が多くなりましたが、小回りが利くとは言えハンドルはパワステではない重ステ、座席はリクライニングしない、シフトレバーはコラム式マニュアルといった車なので、私の年代より年下の団員は運転に苦労していたようでした。

当初は普代村消防団第三分団表記のままだったスタウトも大槌町の所有に名義変更となり、大槌町消防団の名を纏い第二の車生をスタートしました。その後、消防無線機の取付けが行われ、分団ではモーターサイレン断続吹鳴装置、後部赤色警光灯、警鐘の艤装、標識灯へ『アンド』の名入れを行い名実ともに安渡2号車となりました。

スタウトの火災出場は、平成23年8月14日の大槌町吉里吉里地区で発生した民家火災への出場が大槌町に来て唯一の火災出場で消防車現役としても最後の火災出場でした。この火災には私もスタウトで出場し、放水はしなかったものの先着し放水していた安渡1号車の支援に当たりました。その他の出場としては津波警戒として平成24年3月14日の三陸沖地震による津波注意報、8月31日のフィリピン沖地震による津波注意報、12月7日の福島県沖地震による津波注意報、平成25年2月6日のサンタクルーズ諸島沖地震による津波注意報と4回出場し、避難誘導広報や警戒監視に当たりました。ただこの頃は避難誘導と言っても我々の安渡地区は津波でほぼ全滅し、ほとんどの住民が仮設住宅で暮らしていたことから、日中の時間帯であれば海岸部にいる漁業者や工事関係者に対する避難広報が主となっていました。

スタウト積載車は普代村でも海岸部を管轄する太田名部地区で活躍し、東日本大震災大津波から逃れ、一度引退後は大槌町安渡地区に活躍の場を移しカムバック、最後まで津波対応と住民を護るために奔走しましたが、平成25年3月、新しい安渡2号車の配備に伴い遂に現役引退となりました。前号でも書きましたが本来であれば何処か引き取り手があり保存等が叶えば良かったのですが、それもできずに私と車好きの団員でスタウトのパーツ等を取り外し記念に残しています。赤色警光灯や消防団徽章は屯所倉庫にありますし、積載していた小型動力ポンプは備品外となりましたが、現在も稼働状態を維持し『太田名部号』として安渡予備ポンプとなっています。私は、STOUT2000のエンブレムを記念に保存しています。平成25年には消防団発足120周年を記念して日本消防協会が製作したカレンダーに縁があってスタウト積載車の写真も掲載していただく栄誉に浴したものの、最後はひっそりと解体屋に引き取られました。私は東日本大震災大津波後の大変な過渡期に共に活動したスタウト積載車を決して忘れることはありません。

スタウト消防車
平成24年7月20日、消防団120年記念カレンダー用の写真撮影時の1コマです。表記書き換え、分団での追加艤装等行った後の最終状態で、この8カ月後にスタウトは退役となりましたが、私はフェンダー横の「STOUT 2000」エンブレムを取り外し今も大切に保管しています。
東日本大震災の津波で、岩手県大槌町の消防団は車両も仲間も失った。 それでも立ち止まらず、支援車両として届いた1台のトヨタ・スタウトと共に、団員たちは再び立ち上がる。 偶然のようで必然だった「再会の物語」は、失われた町に希望のエンジン音を響かせた後編。
写真・文◎鈴木亨(大槌町消防団第2分団) Jレスキュー2025年11月号「オラぁどぅ元気だがや!」掲載記事